『バーチャル秘書』

作 市田ゆたか様



Phase.01


「澤田君、ちょっといいかね」
秘書室長の大岩が声をかけた。
「何でしょうか室長」
澤田藍子は、書類整理の手を止めて言った。
「実は来月発足の新規プロジェクトに、優秀な秘書がほしいと人事部から依頼があったのだよ。君はわが社の秘書の中でも最も優秀だ。そこで、ぜひともこの新規プロジェクトに推薦したいのだが、受けてくれるかね」
大岩室長は、極秘のスタンプが大きく押された書類を藍子に手渡した。
「バーチャル秘書プロジェクト?」
「そうだ。わが社では部長以上に秘書がつくことになっているが、現在秘書業務で一番多いのがコンピュータでの文書作成と電子メールのやりとりになっているのは知っているな」
「はい室長、私もほとんどがその仕事をしていますから」
「そこでコンピュータの上で仮想的に動く秘書を作成すれば、それにかかる人件費を大幅に削減し、部長より下の社員も秘書を使うことにより文書作成などの工数を削減することができるというのが、このプロジェクトだ。まずは社内でテストをして、うまくいけば新しいOA商品として売り出していきたいというのが研究所の考えだそうだ」
「それで、私は何をしたらいいんですか」
「来月から研究所に移籍して、バーチャル秘書のモデルになってほしいというのが人事部からの要請だ。給料はいまの事務職から研究職待遇になるので、3割は手当てが増えるそうだ。それから住居は研究所に隣接した独身寮が用意されることになる。受ける気があるのなら、すぐにでも人事に返事をするし、嫌ならほかの子をあたることにするので早く決めてくれると私もうれしいのだが」
「わかりました。やります」
給料アップとアパートの家賃がなくなることで増えることになる金で、どんな服を買おうか何を食べようかと考えて藍子は上機嫌になった。

「ここが研究所ね」
藍子は前日に渡されたIDカードを受付に見せて研究室の場所を聞き、廊下を歩き出した。
建物の中の人々はほとんどが白衣の研究者で、ビジネススーツにハイヒールという姿の藍子には場違いなように感じられた。
迷路のような建物の廊下を歩いていくと、やがて目的の第3研究室にたどりついた。
「はじめまして、秘書室より異動してきました澤田藍子です」
藍子は礼儀正しく挨拶をした
「私はここの責任者の田原です。貴方がバーチャル秘書になってくれる藍子さんですか。早速ですがそこの椅子に座ってください」
「あの、ほかの人はいないんですか」
「ええ、第3研究室は私一人の研究室です」
藍子が椅子に座ると、目の前にコンピュータのモニターが下りてきた。
「バーチャル秘書の説明はすでに聞いてきたと思いますが、再度説明する必要はありますか」
「いいえ、大丈夫です」
「それでは、手元のキーボードから、スクリーンの質問に入力をしてください。面倒くさいと思いますが必要な手続きなので」
(バーチャル秘書プロジェクトに参加しますか?)
(このプロジェクトの内容については責任者の許可がない限り口外しませんか?)
(このプロジェクトに参加中は日常生活に支障があることを承諾しますか?)
スクリーンには、いくつもの内容が次々に現れ、藍子は次々に"YES"を入力していった。
(これより5年間、バーチャル秘書のプロトタイプとなることを承諾しますか Y/N?)
「プロトタイプ?」
藍子は尋ねた。
「ああ、最初のバーチャル秘書を量産するためのモデルのことです」
「わかりました」
藍子は質問に"YES"と入力した。
(あなたはすべての質問に了承しました。これよりバーチャル秘書プロジェクトを実行します。以後のプロセスは取り消すことができません。本当にいいですか Y/N?)
藍子は質問に"YES"と入力した。

 Executing Virturl Secretary Project.
Phase 1. brain conversion.

コンピューターのスクリーンに英語の文字列が流れ始めた。
画面がフラッシュし、ブーンという振動音が少しずつ大きくなっていった。
藍子は首の後ろにチクリとした痛みを感じた。
「えっ、何がはじ…ま……る………の……」
藍子の意識は闇に閉ざされた。


「う…うーん。あれ、ここは…」
気がつくと藍子は壁も床も天井もない灰色の空間に浮かんでいた。
『気がつきましたか。そこはバーチャル空間です』
田原と名乗った研究者の声がどこからともなく聞こえた。
「バーチャル空間?」
『そうです。コンピュータの中に作られた仮想空間のことです。貴方にはしばらくそこで今までと同じ秘書の仕事をしてもらうことになります。いまからバーチャルオフィスを設定しますので少し待ってください』
田原の声が終わってしばらくすると、灰色の空間に光の線が現れ、四角い箱のように藍子の周囲を取り囲んだ。
天井と床が現れ、四方に壁が現れた。壁面は無数のコンピュータスクリーンで埋め尽くされており、そこではワープロやメール、プレゼンテーションソフトなどさまざまな仕事のソフトウェアが動作していた。
「な、何これ…」
藍子はパニックになって出口を探したが、すべての壁面はコンピュータ画面で埋められており、窓もドアもなかった。
『落ち着いてください。いま貴方の脳はコンピュータ化されて、このために開発した専用OSの上で貴方の意識が動作している状態です。わかりますか』
「え…どういうこと?」
『その場所も貴方の体も現実のものではありません』
藍子は自分の体を見下ろした。
よく見ると、手足や着ていた服は細かいポリゴンとテクスチャになっており、体を動かすたびに書き換えられていることがわかった。
「い、いや。元に戻して…」
『すみませんが今すぐには戻ることはできません。貴方の脳はコンピュータ化するために体から取り外されていて、いまは直接ホストコンピュータに接続されているんです。貴方はすべてを了承して自分から承認したということは覚えていますか。思い出せないようなら、貴方が承諾した内容は最優先プログラムとしてバックグラウンドで動作中ですので、アクセスしてみてください』
「バックグラウンド…な、なにこれ…、本当だわ…」
藍子の意識の中に承諾した項目が順番に浮かび上がってきた。そして、それは自意識より優先されていて逆らうことができないことも本能的に理解できた。
『説明不足で申し訳ありませんでした。その承諾書を全部読めばわかると思っていましたので』
「私こそ、取り乱してごめんなさい。今改めて確認したらわかりました。でも…」
『あと数日で身体に外部インターフェイスを取り付ける改造が終わるので、その時点で元に戻ることが可能です。それ以降は必要なときにネットワークと接続してもらえばいいですから、それまで我慢してください』
「わかりました。それで、私は何をしたらいいんですか」
『普通に秘書の仕事をしてくれればいいですよ』
「普通にといっても、ここには誰もいないんですが」
『そこにある画面の一つ一つが研究所内のネットワークに接続された端末の画面です。端末番号32を見てください。第3研究室の2台目の端末です』
「えっと、…これですか」
藍子は沢山の画面の中から目的の画面を探し出した。
『画面の右下にアイコンがあるだろう。これがバーチャル秘書のクライアントプログラムです』
画面の右下には藍子の顔をデフォルメしたような女性の顔のアイコンがあった。
『端末でクライアントプログラムを起動すると、貴方とコミュニケーションが可能になるようになっているので、そのウィンドウを通して秘書の仕事をしてみてください』
研究員がそういうとアイコンが光って画面にウインドウが開き、研究員の顔が現れた。
『今こちらにはCGで表現された貴方の姿が現れています。貴方のほうには端末のカメラからの映像が見えているはずですが』
「あ、はい。見えています」
藍子は画面に向かって言った。
『端末で君の姿の上にファイルをドラッグすると、貴方渡すことができます。こんなふうに…』
田原が言うと藍子の目の前の空中にワープロの画面が開いた。
『それから、貴方はデスクトップのアイコンに触れれば端末上のソフトを動かすことが可能です。そこのメールソフトを動かしてみてください』
「あ、はい」
藍子が恐る恐るメールのアイコンに触れるとワープロの画面の横にメールの送信画面が開いた。
『それでは、この資料を報告書にまとめて関係者にメールしておいてくれ。あて先はこちらのファイルの一覧だ。作業が終わったり、貴方から報告があるときはそちらからアイコンに触れればウインドウが開くようになっているから、うまくやってください』
研究員の言葉が終わるとともに藍子の周りを取り囲むようにいくつものファイルが現れ、研究員の顔が現れていたウインドウが閉じた。

「とりあえず、これをかたずければいいのね。ふーん、営業部長とかと違ってわかりやすい資料だわ。これなら簡単にレポートにまとめられるわね」
そう言うと藍子は作業を始めた。ワープロには漢字変換することなく思ったとおりの字が現れるのであっというまに文章を書き上げることができた。必要な計算も思っただけで数字が出てくるので電卓を使う必要もなかった。藍子はできた報告書をメールソフトの上にドラッグして送信した。
「もう終わっちゃったわ。前だったら一時間はかかっていた分量なのに、まだ13分27秒しかたってないわ」
藍子はアイコンに触れて、ウインドウを開いた。
「作業は終わりました」
『何だって、もう終わったのか。最初からこれだけのパフォーマンスを出せるなんて予想以上だ。これなら貴方のおかげでバーチャル秘書プロジェクトは成功間違いないでしょう。新しい身体ができるまでしばらく休んでください』
研究員がそういうと、壁面のコンピュータ画面が次々に消えて藍子は灰色の空間に取り残された。
「ちょっと…。こんなところでいつまでも待っていたらおかしくなっちゃうわ。まだバーチャルオフィスで仕事をしていたほうが…シグナルを受信しました…プログラムAIKOを終了します」
藍子の姿は仮想空間から消え去った。

「藍子さん、気がつきましたか」
研究者の声に藍子は目を覚ました。
「あ、はい。ここは?」
「現実の研究室の中です。身体の改造は無事に終わってコンピュータ化された貴方の脳との接続が終わったところです」
藍子はガウンのような服を着せられてベッドに横たわっていた。
「仮想空間はどうでしたか」
研究者が聞いた。
「えっと、最初は驚いたけれど、すぐに慣れました。自分の意識がプログラムになっているなんて変な感じです」
「それはよかった。今までの被験者の中には…いや、なんでもありません。ところで、身体に問題は感じないですか」
そう言われて藍子は自分の両手を握ったり開いたりした。バーチャル空間ではない肉体の感覚を確かに感じることができた。
「普通、みたいです」
「それならば大丈夫ですね。それでは今から貴方の新しい身体について説明します」
「新しい、身体ですか」
「そうです。さきほど言ったように貴方の身体はコンピュータ化された脳を受け入れるために改造されています。見た目はほとんど変わりませんから安心してください。ベッドから降りて立てますか」
「はい、これでいいですか」
藍子はガウンを着たままベッドの横に立った。
「それでは裸になってみてください」
「えっ、そんなこと…」
「そうしないと説明ができないんですが」
「だって、会ったばっかりの人に、そんなこと」
「会ったばかりじゃありませんよ。私はもう一ヶ月近く貴方の改造に付きっ切りでしたから」
「えっ一ヶ月も?まだほんの数時間しかたっていないんじゃないんですか」
「その間のほとんどは貴方の意識プログラムを停止していたから、あっという間に時間がたったように感じているだけです。私はその間、毎日貴方の裸を見ていましたから」
「でも…」
「わかりました。それでは隣の更衣室に行ってください。中に全身ミラーがありますので、裸になってそれを見ながら説明を聞いてください」
藍子は更衣室に入って服を脱いだ。
ミラーで全身をくまなく眺め、いろいろな部分に触れてみたが、まったく違和感を感じることはなかった。
「何かおかしいところはありますか」
「どこも、おかしくありません。どこを改造したんですか」
「外側は99.5%まで生身です。内部も生身を維持するための内蔵はそのまま残っていますから、もちろん食事もしなければ駄目ですし、ロボットやサイボーグと違って心臓や肺もそのまま残っていますから傷つければ血も出ます。必要な回路はすべて体内の隙間に埋め込んであります」
「それじゃあ、どうやって接続するんですか」
「接続用のインターフェイスは額の電脳直結ポートと両乳首の補助ポートです」
田原の声が終わると、額に横長のシャッターが開き、中にはグリーンのパイロットランプといくつもの端子が並んでいた。
「通常は額のポートにインターフェイスケーブルを接続しますが、外で接続する場合には、どんな格好をしていても隠しておかしくない場所ということで乳首を選びました。ここにあるポートに無線インターフェイス内臓の特殊ブラジャーを接続してもらいます」
藍子はおそるおそる自分の乳首に触れた。乳房には柔らかな触感があったが、乳首の先端だけは触れても何も感じることはなく、硬いプラスティックの感触がした。
「いやよ、こんなの。あたしの大事な…。もっとほかの場所にしてよ」
「すみません、気がつかなくて。ただ、今から戻すとなるとクローン再生に3ヶ月はかかります。これではプロジェクトが遅れてしまいます。5年の期間が終わったときには、元のとおりに戻すことを約束しますから、納得してください」
「冗談じゃ…」
藍子の声が一瞬止まった。
「…私が原因でプロジェクトが遅れることは承諾書第4項に違反します…プログラムAIKOを一時停止しました…」
藍子は無表情につぶやいて動きを止めた。
「ふむ、承諾書はまだ優先していましたか。乳首のポートを認めるように修正後、プログラムAIKOを再起動してください」
田原がそういうと藍子は言葉を続けた。
「あれ、今何か言いかけたような…。まあいいわ。プロジェクトのためならそのぐらいは我慢します」
「それでは服を着て、今日のところは寮に戻ってください。明日の出勤は10時です」
「わかりました」
藍子は綺麗にクリーニングされて畳まれているビジネススーツを再び着た。

研究所を出て銀行で通帳を記入すると、いつもの1.5倍の給料が振り込まれていた。
「もう一ヶ月たっちゃったのは予想外で驚いたけど、これだけ給料をもらえるんだったら頑張らなくちゃ。そうそう、友達に一ヶ月間も連絡しなかったことのうまい説明を考えなくちゃ」
藍子は銀行を出ると颯爽と歩き出した。


「あら、藍子じゃない」
後ろからの声に藍子は振り返った。
「え、ああ奈津美。ひさしぶりね」
声をかけてきたのは秘書室の同期、坂本奈津美であった。
「ひさしぶり、じゃないわよ。異動になってから全然連絡がないし、内線電話をかけても企業秘密のプロジェクトだからって取り次いでもらえないし。心配してたのよ」
「ごめん。心配させちゃって。お詫びに何でもおごるわよ。給料は上がったし寮に入ったから生活費もほとんどかからないし」
「そうねぇ。それじゃあ、パスタ・デル・ソルでフルコースがほしいわね」
奈津美は会社の近くのイタリア料理店の名前を挙げた。
「そんなところでいいの?何でもおごるわよ」
二人はイタリア料理店に向かった。

「で、そのプロジェクトって何をやっているの?あたしにだけ教えてよ」
大盛りのパスタを口に運びながら奈津美が聞いた。
「えーっと、どこまで話していいのかな。バーチャル秘書プロジェクトって言って、秘書の代わりをする新しいオフィスソフトを作ろうっていうプロジェクトなの。あたしはそのモデルをやっているんだけど」
「そんなことは知ってるわよ。藍子は同期の中でも一番優秀だったもんね。藍子が抜けたおかげで、仕事の穴を埋めるのが大変なのよ。あたしが知りたいのはそんなことじゃなくて、そのモデルっていうのが実際に何をやっているのかっていうことよ」
「そうねぇ。奈津美にだけは教えてもいいかな。実はあたしの…」
途中まで話そうとしたところで、藍子の動きが止まり、虚ろな瞳になった。
「ど、どうしたの」
「…プロジェクトの内容を責任者の許可なしに他人に伝えることは承諾書第2項に違反します」
藍子はフォークを半ば持ち上げた状態のままピクリとも動かさず単調な口調で答えた。
「もう、固いこといわないでよ。藍子ってば」
「プロジェクトの内容を責任者の許可なしに他人に伝えることは承諾書第2項に違反します」
藍子は再び単調に答えた。
「わかったわよ。もう聞かないわ」
奈津美が言うと藍子は元の表情に戻って動きを取り戻した。
「ところで、何が聞きたかったの」
「もういいわ。藍子ってそんなに杓子定規だとは思わなかったわ。研究所に行ってから人間が変わったみたいよ」
「変わったといえば、変わったかも…。だってあたしは脳に…プロジェクトの内容を責任者の許可なしに他人に伝えることは承諾書第2項に違反します」
「やっぱりおかしいわよ。一ヶ月も缶詰になって疲れているんじゃないの」
「そんなことはないわよ。大丈夫だってば」
「おかしいわよ」
「おかしくないってば…」
その後は気まずい沈黙が続き、二人は店を出ると無言で別れた。

寮に帰った藍子は前のアパートから送った荷物の梱包を解きながらつぶやいた。
「奈津美ってば一体どうしちゃったのかしら。あたしそんなに変な事を言ったかしら。あとでちゃんと話さなくちゃ」

「あ、もうこんな時間だわ。明日は遅刻しないようにしないと」
藍子は目覚まし時計をセットして、ベッドに横になると目を閉じた。
「ピッ…プログラムAIKOをスリープモードにします」

Phase.01/終


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